子どもの私はどこへいったのか
前にもちらっと書いたことがあったかもしれない。
私は幼い頃から、大人になることを寂しいものだと思っていた。
大人になるということは、子どもの自分を捨ててしまうことだと思っていたからだ。
自分の意思とは関係なく、子どもは必ず大人になる。
それを必要以上に意識していたからこそ、自分が得体のしれない自分ではない何かに変化するのが恐ろしかったのだ。
で、今の私はもう大人だ。
まだ未成年ではあるが、子どもか大人かと言われたら間違いなく後者であろう。
今大人になってみて、幼い頃の自分の恐れを考えてみると浅はかだったなあと思う。
確かに、子どもの自分と大人の自分は違う人間だ。おままごとばかりしていた子どもはもうここにはいないし、会社や学校でわめき散らしたり、手を出して叱られる子どももいない。
でもそれは子どもから大人に成長する過程で変わった、いわば発達的側面から見た違いであり、表面的なものであると私は考える。
おままごとをしなくなろうが、沈黙できるようになろうが、大人のあなたは子どものあなたで、大人の私は子どもの私のままなのである。
子どもの自分は今も、これからも自分の中に居続ける。
毎秒(もしくは数え切れないほど小さな単位の時間で)私たちが"その瞬間の自分"という皮を剥いで別れをつげているとすれば、今まですごした瞬間の数だけの自分が今も私たちの中に居続けている。
子どもの自分はどこへいったのか。
その問いへの私の答えは"大人の自分の中"だ。
ちっとも寂しくなんかないんだ。